
「明日は織姫と彦星が一年に一度出会える日なんだよ」
ただでさえ7/7が通しで憂鬱だというのに、デスクの上にどっこらしょって感じで腰掛けていた増田さんが、頬骨の当たりの骨が非常に加工しやすい材質で光沢もあり、印鑑や装飾品にうってつけという理由で乱獲され、絶滅寸前まで追い込まれたみたいな増田がその大きな体を震わせながら喋っていました。
ビルから向かいのマンションを見ながら「ロマンチックだわぁ」と目をキラキラさせている増田さんに、産卵期特有の求愛行動みたいな何かを感じた僕は、「頑張れよ、絶滅寸前なんだからちゃんと産卵までこぎつけるんだぞ」みたいなことしか考えられなかったのですが、この増田さんの言葉、よくよく考えてみると何か変なんです。
この増田さんが発していた言葉は言うまでもなく七夕のことで、よもや知らない日本人はいないと思いますが、念のために説明させてもらうと、季節の節目となる五節句のうちの一つで、旧暦の7月7日の夜がそれにあたります。ここで不思議なのはなぜ「七夕」と書いて「たなばた」と呼ぶのか。当たり前すぎて不思議に思いませんでしたが普通の神経ではこうは読めません。
もともと、七夕はお盆の行事でありました。向こうの世界から帰ってくる故人やご先祖様を迎えるため特別に精霊棚とそこに飾る幡を準備する日だったのです。棚と幡から「棚幡(たなばた)」となり、それが七日の夕方にやるものだったことから「七夕」に読みだけ「たなばた」とついたとも言われています。
では、この七夕のイメージですが、それこそ日本に住む多くの人々が即答するようにそれらは「短冊に願い事を」「織姫と彦星が一年に一度天の川を超えて出会える日」の二つに集約されると思うのですが、これらがどういう成り立ちで生まれてきたのか、ちょっと調べてみましたがあまり良く分かりませんでした。
「短冊に願い事を書く」という行為は、七夕がお盆の行事からきていること、季節の節目の行事であることを考えればさほど不思議ではなく、神事などに多く見られる行為とそう変わりないのですが、七夕のエッセンスとして燦然と存在する「一年に一度しか会えない二人」という設定はよく考えると異常なんです。
古来から伝わる多くの行事は五穀豊穣を願ったり、豊作だったり大漁を願ったり、家内安全を願ったり、実は非常に自分本位で、自分もしくはその周りにさえ良いことがあればいい、そんなある意味自分勝手な思想の下で成り立っていることが多いのです。だから「短冊に願い事を書く」の方は行事としてはかなり真っ当なのです。
別にこれ自体は責められることではなく、古来の人々なんてのは現代のようにグローバルで大きい規模で物事を考えるなんて有り得ないでしょうから、自分本位にもなる。むしろ自分のことで精一杯で人のことを想っている場合じゃない。日照りが続いて米が取れず、飢餓が襲おうとしている古代の村で「争いのない世界!世界の平和を!」とか祈ってる若者がいたら村のオサとか卑弥子様とかに殺されるんじゃないですかね。
そう考えると、本来は自分本位であることが当たり前の行事において、一年に一度しか会えない二人に思いを馳せてロマンチック、我が職場の絶滅危惧種の増田さんの言葉はなかなかに異様で異端です。親戚のオッサンがスナックのママになかなか会えないとかボヤいてても別にどうでもいいやって感じになるのに、それ以上に知りもしない織姫と彦星がどうなろうとしったこっちゃない、それが普通の感覚なんじゃないかと思うのです。
そしてワタクシにも織姫を選ぶ権利があると思うのです。
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