その組織には、不文律があった。
すず代表に恋をしてはならない。
以上である。説明は不要だ。なぜならその不文律を破った者が、過去に三十七名いて、三十七名全員が現在行方不明だからだ。行方不明というのは婉曲表現で、正確には「すず代表に一瞥をくれてもらえないまま精神が蒸発した」という状態である。遺体はない。魂だけが消えた。
それでも人は恋をする。愚かだから、ではない。止められないから、である。
五十嵐さんは、今日も笑っていた。
組織の中で最も美しい女と言われていた。すず代表を除いて、という但し書きが常についたが、五十嵐さん本人はその但し書きを、笑顔で燃やしていた。内側で。誰にも見せずに。
「すず代表、今日のご予定は」
「ない」
「では午後の会議は」
「出ない」
「夕食は」
「食べない」
「お気持ちは」
「ない」
五十嵐さんは微笑んだ。満点の微笑みだった。しかし胃の中では五反田サイゼリヤのミラノ風ドリアが逆流しそうになっていた。昼に食べたミラノ風ドリアが。299円の。
すず代表は窓の外を見ていた。何を見ているのかは、誰にもわからなかった。たぶんすず代表自身にも、わからなかった。ただ、その横顔が恐ろしく美しかった。美しすぎて、五十嵐さんのミラノ風ドリアが再び逆流した。
澤田さんは廊下で壁を殴っていた。
理由は特にない。強いて言えば、すず代表が今朝、自分の方を見なかったからだ。澤田さんは五十嵐さんのように美しくないし、すず代表のように冷たくもない。ただ、でかくて、うるさくて、すず代表のことが好きだった。
壁に穴が開いた。
「また澤田さんが壁壊した」と誰かが言った。
「今月三回目だ」と誰かが言った。
「すず代表に報告しろ」と誰かが言った。
全員黙った。報告した者が過去に行方不明になっているからだ。
澤田さんは穴の開いた壁を見つめ、今夜も眠れないと思った。眠れない夜に澤田さんがすることは一つだった。五反田サイゼリヤに行くことだ。この組織では、感情の行き場が全て五反田サイゼリヤに集約されていた。それはなぜかというと、近くにサイゼリヤしかなかったからだ。五反田に。
MIKIが来たのは、そんな均衡のとれた——均衡はとれていないが——秋の午後だった。
ドアを開けた。
「すみませーん、ここって求人してますか」
全員が振り返った。
MIKIは笑っていた。無防備に、無自覚に、何も知らずに笑っていた。すず代表の不文律も、五十嵐さんの刃も、澤田さんの壁の穴も、何も知らずに、ただ笑っていた。
すず代表が初めて、窓の外から視線を外した。
MIKIを見た。
二秒、見た。
それだけだった。しかしその二秒が、この組織の均衡を、音もなく、しかし完璧に、破壊し始めていた。
五十嵐さんのミラノ風ドリアが、三度目の逆流をした。
澤田さんの拳が、また壁に向かった。
夜、五反田サイゼリヤに四人が偶然居合わせた。
「偶然ですね」とMIKIが言った。
「偶然ではない」とすず代表が言った。
「偶然です」と五十嵐さんが笑った。
澤田さんは黙ってペペロンチーノを噛んだ。大盛りだった。
ファミリー層とカップルで賑わう店内に、この四人は異様に浮いていた。隣のテーブルの子供が澤田さんを見て泣いた。澤田さんのせいではない。たぶん。
これが始まりだった。五反田サイゼリヤから、全ての歯車が狂い始めた。後に歴史家は、この夜を「ドリアの夜」と呼ぶことになる。歴史家は誰もいないが、もしいたら、そう呼んだはずだ。
MIKIは何も知らなかった。
すず代表が組織の支配者であることも、五十嵐さんが笑顔の下に刃を隠していることも、澤田さんが毎晩壁に穴を開けていることも、何も知らなかった。知らないまま、毎日出勤した。知らないまま、すず代表に話しかけた。知らないまま、五十嵐さんと仲良くなった。知らないまま、澤田さんの壁の穴を「芸術的ですね」と褒めた。
澤田さんは泣きそうになった。褒められたことがなかったからだ。壁の穴を。
問題はすず代表だった。
すず代表はMIKIを見るようになった。窓の外ではなく、MIKIを。これは組織始まって以来の事件だった。三十七名が行方不明になった歴史の中で、すず代表が自発的に誰かを見たのは、初めてのことだった。
五十嵐さんは笑顔のまま、給湯室でマグカップを握りつぶした。
素手で。
陶器のマグカップを。
素手で。
「あ、割れちゃった」と五十嵐さんは笑いながら言った。手から血が出ていた。
ある夜、五十嵐さんはMIKIを呼び出した。
五反田サイゼリヤの、窓際の席だった。夜景とファミリー層が見える席を選んだのは、五十嵐さんなりの誠意だった。
「MIKIさん、すず代表のことが好きですか」
MIKIは少し考えた。
「好きですよ。かっこいいし」
「そうですか」
五十嵐さんは笑った。今まで生きてきた中で、最も綺麗な笑顔だったと思う。
「では死んでもらえますか」
「え」
銃声が響いた。
MIKIは肩を撃たれた。サイゼリヤの白い壁に血飛沫が映えた。タランティーノもびっくりの映え方だった。インスタに上げたら一万いいねは固いと思ったが、上げている場合ではなかった。
隣のテーブルのファミリーが「また始まった」という顔をしていた。五反田サイゼリヤでは、よくあることだった。
——後編へ続く——
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