おはようございます
ミセスOLスタイルの店長です
現代の私たちは、時間を削ることにすっかり頭を乗っ取られている気がします。
映画は2倍速で観て、10分の動画は10秒スキップを連打しながら1分で消費する。ビジネス書は要約サイトの3行の結論だけを脳に流し込み、食事は噛む時間すら惜しんでゼリー飲料で胃に叩き込む。
スタートからゴールまでを最短最速、一直線の「高圧プレス」で押し潰すような生き方です。無駄な余白をすべて圧縮し、極限まで効率化された人生。
確かに、私たちは膨大な「時間」を手に入れたはずでした。しかし、その圧縮されたプロセスの果てに、一体何が残っているのでしょうか。
映画を10分に圧縮する人の盲点
2倍速で映画を観る人は、おそらく「ストーリー(あらすじ)」を消費しています。
しかし、映画の本質はあらすじにはありません。
主人公が絶望したとき、沈黙する「3秒間の間(ま)」。
別れのシーンで、背景に映る雨の激しさ。
登場人物が言葉に詰まり、視線を落とす一瞬の揺らぎ。
タイパを最優先にすると、この「間」や「演出」はすべて「無駄な時間」としてカットされてしまいます。結果として受け取っているのは、映画という芸術ではなく「単なる取扱説明書」です。「誰が誰を裏切って、こうなった」というデータだけを脳のハードディスクに保存して、満足している状態です。
これでは「映画を10本観た」というより、実際には「10本のあらすじを読んだ」だけで、心は一度も震えていないのかもしれません。
「道中」を失った移動の虚しさ
どこかへ行くときも同じです。
新幹線や飛行機で、窓の外の景色も見ずにスマホの画面を凝視し、最短ルートで目的地に到着する。スマホのナビが示す最速ルートから、1メートルでも外れることは許されません。
しかし、かつて人間が旅で得ていたおもしろさのほとんどは、その「道中」に転がっていたはずです。
迷い込んだ路地裏で見つけた奇妙な看板、乗り間違えた電車の窓から見えた名前も知らない川の美しさ、予定が狂ったことで立ち寄った鄙びた定食屋の味。
効率を求めすぎると、これらの「予測不可能なノイズ」はすべて不純物として排除されてしまいます。エラーのない、完全にコントロールされた移動。それはもはや旅ではなく、単なる「物体の座標移動」になってしまいます。
効率化の果てに待つ、空っぽの倉庫
なんでもかんでもタイパ、タイパと時間を短縮した結果、私たちの手元には「浮いた時間」が大量に余ることになります。
では、その必死に捻出した時間で、現代人は何をしているのでしょうか。
不思議なことに、さらに別の動画を2倍速で観るための時間を探していたりします。あるいは、SNSのタイムラインを無限にスクロールし、他人の人生のハイライトを最速で消費しています。
時間を短縮するために人生のプロセスをすべて叩き潰し、その結果できた時間で、また別のプロセスを叩き潰す。
これは、空っぽの段ボール箱をものすごい速度で美しく折り畳む作業を、延々と繰り返しているようなものです。倉庫は綺麗に片付いていますが、中身は文字通り「空っぽ」です。
「無駄」という名の贅沢
もちろん、時と場合によります。無駄な会議や、役所の非効率な手続きは、徹底的に潰せばいいと思います。
しかし、自分の人生の経験までプレス機にかける必要がどこにあるのでしょうか。
たまには、あえて遠回りをしてみる。スマホを見ずに、ただ歩いてみる。結論の出ない雑談に3時間を費やしてみる。
効率化というマシーンのスイッチを切り、あえて「じっくり」と時間をドブに捨てるような贅沢をしてみたとき、私たちは思い出すのかもしれません。
私たちが生きている実感とは、最短ルートのゴール地点ではなく、その道中で泥にまみれ、迷い、立ち止まっていた「無駄な時間」の中にこそ、鮮明に刻まれていたのだということを。