おはようございます!
石上です!
本日4/13は決闘の日!
1612年のこの日に宮本武蔵と佐々木小次郎が巌流島の戦いと言われる伝説的な決闘を行いました。
本日はこの伝説的な決闘について深堀りしていきます!
決闘の経緯
決闘の原因は、武蔵と小次郎の弟子たちの間で起こった口論でした。どちらの師匠が強いかを決めるために、決闘が行われることになりました。また、小倉藩の政治的陰謀も背景にあったとされています。小倉藩主・細川忠興は、剣術指南役として佐々木小次郎を登用しましたが、小次郎の影響力が増すことを危惧した藩内の重臣たちが、武蔵を召喚し、決闘に至る状況を作り出したと言われています。
決闘の様子
決闘では、佐々木小次郎は刃渡り約1メートルの備前長光を使用し、宮本武蔵は船の漕ぎ手からもらった櫂(オール)の手元を削って作った約90センチと約50センチの木刀を使用しました。武蔵は人を殺すことを嫌っていたため、木刀を選んだとされています。そして、武蔵は目にも止まらぬ速さで小次郎を倒し、勝利を収めました。
勝敗の影響
この決闘の結果、宮本武蔵の名はさらに高まり、彼の流派である二天一流の創設者としての地位を確固たるものにしました。一方で、佐々木小次郎はこの決闘で敗れたことで歴史の中での彼の名声は、武蔵の影に隠れる形となりました。しかし、小次郎が創設した流派「巌流」にちなんで、戦いの場所は「巌流島」と呼ばれるようになり、彼の名も後世に伝えられることとなりました。
巌流島の戦いは、日本の武士道精神や決闘文化を象徴する出来事として、今もなお多くの人々に語り継がれています。この決闘は、日本の歴史や文化において非常に重要な位置を占めており、その勝敗は日本の剣術史における重要な転換点となりました。
さらに巌流島の戦いにまつわる面白い雑学をご紹介!
時間にルーズだった武蔵?
武蔵は約束の時間よりも1刻(約2時間)遅れて巌流島に到着したと言われています。この遅刻は戦略的なものだったのか、それとも単なる時間感覚のズレだったのかは定かではありませんが、この行動が小次郎の心理に影響を与えた可能性があります。
武蔵と小次郎の年齢差
実は、武蔵と小次郎の間にはかなりの年齢差があったとされています。一般的なイメージでは、二人は同年代の若者として描かれがちですが、実際には小次郎は60歳近くの老人であった可能性が高いです。
遅刻してさくっと木刀で勝ってしまうというまさに嵐のような男ですね宮本武蔵…
また、全盛期を過ぎながらも年齢差がある相手との決闘から逃げず、ちゃんと戦った佐々木小次郎も素晴らしいと思います。
それでは巌流島の戦い川柳でお別れです!
また次回のブログで!
遅刻して
木刀一本
武蔵勝つ